10月22日に「いわて盛岡シティマラソン」が行われました。
この大会にゲスト出演した瀬古利彦さんは、スタート前にランナーたちに
「岩手県といえば、やっぱりマラソン選手、佐々木七恵さんです。今日は七恵さんが天国から皆さんを応援しています。頑張りましょう!」
と呼びかけたそうです。
あの瀬古さんがそこまで言う方なのに、失礼ながら佐々木七恵さんという方を知らなかったので、調べてみました。
また、なぜ佐々木さんが日本女子マラソンの先駆者と呼ばれるのか?
その理由は、女子マラソンの歴史に隠されていました。
佐々木七恵さんのプロフィール
ロサンゼルス五輪での佐々木七恵さん
5男2女の7人兄弟の末っ子だったため、七恵という名前になったそうです。
中学ではバレーボール部に所属し、高校に入ってから兄の影響で陸上競技を始めたそうです。
大学までは中距離の選手としてインカレなどで活躍し、卒業後にマラソン界に進みました。
ところで、7人兄弟って今では考えられないんですが、佐々木さんが生まれた1956年は割と普通だったのか…?
調べてみたら、こんなデータがありました。
(白書・審議会データベースより)
また、厚生白書によると「我が国の場合,1925(大正14)年頃から1950(昭和25)年頃までに生ま
れた世代は,多産少死の時期に生まれたため兄弟・姉妹は4~5人と多い」とあるので、7人というのは当時としてもかなり多い方だったのではないかと思います。
マラソンの成績など
自己ベスト記録
3000m 9分39秒86
5000m 15分55秒30
10000m 32分54秒90
マラソン 2時間33分57
マラソンの全成績
大会名 | 記録 | 順位 |
東京国際女子マラソン(1979) | 3時間07分20秒 | 26位(初マラソン) |
東京国際女子マラソン(1980) | 2時間52分35秒 | 9位(日本人最上位) |
ボストンマラソン(1981) | 2時間40分56秒 | 13位(当時日本最高記録・日本人最上位) |
東京国際女子マラソン(1981) | 2時間45分53秒 | 5位(日本人最上位) |
大阪女子マラソン(1982) | 2時間42分09秒 | 11位(日本人最上位) |
クライストチャーチマラソン(1982) | 2時間35分00秒 | 優勝(当時日本最高記録) |
東京国際女子マラソン(1982) | 2時間43分13秒 | 4位(日本人最上位) |
東京国際女子マラソン(1983) | 2時間37分09秒 | 優勝(大会史上日本人初優勝) |
ロサンゼルス五輪女子マラソン(1984) | 2時間37分04秒 | 19位(日本人唯一の完走者) |
名古屋国際女子マラソン(1985、引退) |
2時間33分57秒 |
優勝(大会史上日本人初優勝・自己ベスト) |
パッと見ても、2回目の1980年東京国際女子マラソン以降は「日本人最上位」「日本最高記録」「優勝」「日本人唯一」などの文字が並んでいます。
マラソン選手として現役期間は6年と短かったのですが、これは、結婚したことで「家庭とマラソンの二足のわらじは無理」と自ら1985年の名古屋国際女子マラソンで引退することを決めたからだそうです。
2009年、直腸がんのために亡くなり、このような追悼のコメントが寄せられたそうです。
瀬古利彦さん
「26歳で安定した仕事を捨てて来たこと自体に驚いた。覚悟が伝わった」
「まだ若いのに…残念」増田明美さん
「レース中に七恵さんに抜かれたことが一番悔しかった」
「思い出話に花を咲かせる機会が増えるだろうと楽しみにしていただけに、大変悲しい気持ち」
(wikiwand)
佐々木さんはどんな方だった?
実は調べても、佐々木さんの人柄が分かる情報は少なくて…。
そこで、佐々木さんはこんな方だったのではないかという姿を想像してみました。
努力家?
中距離から転向し、1979年の人生初のマラソン大会のタイムが3時間07分20秒。
1980年のタイムが2時間52分35秒で、さらに1981年のタイムが2時間40分56秒です。
それぞれ約15分、約12分もタイムを縮めているんです。
いくら1976年が中距離からの転向直後だったとはいえ、生半可な努力でこんなことができるとは思えません。
とても努力家だったのではないかと想像できます。
実際、佐々木さんを指導していた中村清さんによると
そして、佐々木さんについて「天才は有限、努力は無限」と言ったそうです。
そうですよね。
生まれつきの才能とか体質は、もちろん大きいと思うんですが。
それだけでその人の適正や出せる成果が決まるのではなくて、才能があっても開花させることができずに終わる人もいるし、才能に努力を掛け合わせて結果を出せる人もいるし、才能がなくても努力でカバーする人もいます。
人生すべて才能で決まるんだったら努力する気にもなれないですが、そんなことはないはず。
努力することを諦めなければ、できるようになる!報われる!!
それを私たちに教えてくれている気がしますね。
Solaは小学生の頃本当にどんくさくて、逆上がりができなかったんです。
走るのも遅くて、6年生の時に50m9秒台後半。
でも、体育の授業で逆上がりできずに笑われたのが悔しくて、毎日学校の休み時間に鉄棒に直行→ずっと練習していたら、どんくさSolaにもできるようになったんですよ!
ちなみに今でもできます(ドヤ顔)
だからといって、努力すればみんながプロスポーツ選手や100年後に名を残す芸術の巨匠になれるわけではないですが、ある程度のところまではできるようになる可能性があるよ、ということだと思います。
意志が強い?
これは、1985年に、29歳というまだまだ現役で活躍できる時に引退したというエピソードから感じたことです。
当時の日本がどういう社会だったかが分からないのですが、結婚だけなら現役続行も可能だったのではないかと思うんです。
それでも、自分の意思で引退を決意。
意志が強いというか、自分にとって大切なことが分かっていて、それを最優先できる人、と言った方が正しいのかもしれません。
上の食生活の改善にしても、マラソンが一番大切。
↓
そのためには太るわけにいかない。
↓
食生活を見直そう。
という思考回路で、やると決めたらやる強さがなければ継続できないと思います。
控えめで表に出ることを好まない?
現役引退後はマラソンから離れ、1991年からエスビー食品でコーチ、1996年から顧問を務めたが、ずっと裏方に徹していたそうです。
これだけの成績を残している方なら、きっと解説者などの声もかかったのではないでしょうか。
でも、表に出ることはなかったのですから、
控えめだった?
表に出ることが苦手だった?
と思うのですが、どうだったのでしょうか。
女子マラソンの歴史
女子マラソンの歴史は、思っていたよりも短くて驚きました。
なぜ佐々木さんが日本女子マラソンの先駆者と呼ばれるかも、これを読めば理解していただけるかと思います。
女性が初めて走ったマラソン
中距離・長距離は女性には向かないと言われ、マラソンはずっと男性のみの競技でした。
多分これが女性初のマラソンランナーではないかと思われるのが、1896年の第1回アテネオリンピックです。
この頃は「スポーツは男性のもの」という考え方が一般的で、女性の参加は禁止されていました。
が、ギリシア人のメルポメネという女性がマラソンへの参加を直訴したものの認められなかったため、男性選手がスタートしたあとに競技委員の目を盗んで走り出したそうです。
優勝者に1時間半遅れてゴールしたものの、記録は認められることはなく、あまり話題にもならなかったそうです。
ちなみにこの大会は男性のみ参加が許可されていて、女性も参加できるようになったのは第2回パリオリンピックからです。
IOC(国際オリンピック委員会)創設者であり、「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵が、女性がスポーツを行うことを好ましく思っていなかったためだそうです。
「女性がスポーツをしている姿は優雅でも面白くもなく、見るに堪えない。女性の主たる役割は(男性の)勝者に冠を授けることである」
(日本財団ジャーナル)
当時の社会を考えると普通の発言なのかもしれませんが…。
クーベルタン男爵、今だったらその発言は一発レッドです(^^;
私、今の時代に生まれてきてよかったです。本当に。
女性がマラソンに公式参加できるようになるまで
女性も声を上げ始めます。
1921年に国際女性スポーツ連盟が発足し、1922年には陸上競技を中心とした女子オリンピック大会が開催されます。
1924年のパリオリンピックでは認められませんでしたが、1928年のアムステルダムオリンピックでは正式に女子の陸上競技が行われました(ただしマラソンは含まれず)。
1960年代は「女性の時代」と言われ、特にアメリカでは女性解放運動が盛んになりました。
1963年
カリフォルニアで開催されたマラソンレースに女性が2人参加し、役員の制止を振り切って男子の集団にまぎれて走りました。
1964年
ニュージーランドで行なわれたレースでは、ミルドレッド・サンプソンが3時間19分33秒でゴール。
1966年
ボストンマラソンで、ロバータ・ジブ・ビンゲイが男性選手にまぎれて3時間21分40秒で完走。
ただし、どれも正式な記録としては認められていません。
転機になったのは、1967年のボストンマラソンでした。
当時20歳の学生だったキャサリン・シュワイツァーさんは性別を隠しゼッケンを獲得してボストンマラソンに出場した。しかし、10kmを過ぎた頃に大会当局者が走るのを妨害し、コースから押し出そうとした。これに対して一緒に参加した友人たちがその妨害を阻止している。彼女は「レースに参加できるのは男性だけと明記はなく、ただ走りたかった」という理由でレースに参加し、4時間20分で完走した。
この写真が大きく取り上げられたことで、女性のマラソン参加への気運が高まっていった。この出来事から5年後にボストンマラソンで女子の参加が認められた。そして、1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックから女子マラソンが正式な種目となった。
(雑学ネタ帳)
注目したいのは、一緒に参加した友人たちがその妨害を阻止したという点です。
写真を見ると分かるように、キャサリンさんを妨害する大会当局者を阻止している友人は、(男性限定のレースなので当たり前ですが)男性なんです。
開催者側はともかく、女性も同じようにスポーツを楽しめるべきという考え方が広がりつつあったこと、時代が変わりつつあったことが分かりますね。
写真を見る限り、コースから引きずり出そうとしているのでは?
そこまでするんですかね~。
ちなみに、「なぜ女性が出場できないのか」という彼女の訴えに対して、アメリカの体育協会は、
国際陸連の規則で男女混合の競技は禁止されている
マラソンは女性としての生理的許容範囲を超えている
と回答したそうです。
…と思うのは、私が現代人だからですよね(^^;
スポランドによると、1970年のニューヨークマラソンには3児の母(!)がニーナ・クラシックが出場。
1971年の同大会では、オーストラリアのビームス選手が2時間46分30秒のタイムを記録し、世界中を驚かせたそうです。
1972年のボストンマラソンには、日本からもゴーマン・美智子選手が参加し、2時間47分11秒で優勝しています。
オリンピックでの女子マラソン初開催
ついに1984年、ロサンゼルスオリンピックで、初の女子マラソンが正式に種目として開催されました。
そう、このレースこそ、佐々木さんが出場したオリンピックです。
ちなみにこのオリンピックには、佐々木さんの他に増田明美選手も出場しました。
日本では?
日本では、1978年に東京で初めて女子マラソン大会が開催されました。
1979年には本格的な国際女子マラソンレース「東京国際女子マラソン」が開催され、これが佐々木さんの初レースでした。
ということで、佐々木さんの現役6年間は、女子マラソン黎明期そのものだったと言えると思います。
「日本の女子マラソンの先駆者」という言葉も当然なわけですね。
まとめ
日本の女子マラソン先駆者の佐々木七恵さんが亡くなって14年。
10月22日に開催された「いわて盛岡シティマラソン」で、瀬古利彦さんが佐々木七恵さんの功績をあらためて発信しました。
佐々木七恵さんは、現役だった期間こそ短かったものの、日本の女子マラソン黎明期を表すランナーの1人だったことが分かりました。
また、世界の女子マラソンの歴史を調べると、多くの女性ランナーたちの奮闘が分かります。
佐々木さんの地元岩手では、佐々木さんを顕彰する「大船渡ポートサイド女子マラソン大会」が開かれていましたが、2019年の第30回大会を最後に現在は開催されていません。
が、今のように女性もスポーツを当たり前のように楽しめる世の中になったこと、日本でこんなに女性のマラソンが当たり前になった背景には多くの功労者がいたということは、忘れないでいたいと思います。